東日本大震災から約1年後、私はいわきを離れました。
それはひとえに「悟るしか道はない」と思ったからです。
東日本大震災が直接の原因ではないのですが「死生観」や「人生観」が変わった結果といえばきっかけではあったといえます。
我々が生きているのは現実社会であり物質文化(唯物)である。一方で悟りとは非現実であり非物質(唯心)であるはずです。
〇悟りとは何ぞや?
悟るとは何ぞや?と問うならば「肉体(物質)を超えること」だと当時の私は考えました。
肉体が物質というのは分かりやすいと思います。では精神(心)はどうか?
精神(心)は脳から生まれると私は考えています。脳は臓器であり物質です。脳から生まれた精神(心)は肉体と密接に繋がっており切り離すことは出来ず、肉体(物質)がある限りそれを超えることは出来ないのです。
お釈迦様が「苦行で悟りは得られない」とされたのはたぶん精神と肉体は切り離せないということだったのではないでしょうか?
〇肉体(物質)を超えるものとは何ぞや?
肉体(物質)を超えるとは「光」を超えることだと私は考えました。
アインシュタインの相対性理論では速度が上がれば質量も増え光の速度を超えると質量は無量大数になるので光の速度を超えることは出来ないというような話だったと思う(高校生の頃読んだ本の内容なのでおぼろげだが)
一方で意識は肉体や精神に作用するが左右されず、物質でもないはずです。
つまり物質ではない意識なら光を超えることができ、「意識が光(時空)を超える」ことが「悟る」ということなのではなかろうか?
いわきを離れたあと、自称「悟っている人」に話を聞いたりもしましたが、どうも要領を得ない。「こいつ悟ってないな」ということは悟りました。
そして思ったのが「果たしてこの世に悟り切った人はいるのだろうか?」という疑問です。少なくとも私は今まで会ったことはありません。
そして、大なり小なり、人は生きていれば「何かしら悟るもので」むしろ「悟らない人などこの世にいないのではなかろうか?」と思うようになりました。
〇悟りとは何ぞや?
悟りとは何ぞや?と問うならば「欲(物質)」を捨てることと今の私は考えます。
京都市内にある有名なお寺のお坊さんの話を聞いた時「お釈迦様は欲を捨てろ」とおっしゃいましたが、現在では「小欲(自分の欲望)」は捨て「大欲(世の為)」は捨てなくてもよい。という解釈になっているとの事でした。
しかしお釈迦様は「欲を捨てろ」とおっしゃったのであってそこに「小欲」も「大欲」もないはずです。(お釈迦様の言っている「欲」というものが何かというのは私には分かりませんし確かめようもありません)
悟りとは欲(物質)を捨てることとするならば、悟る(悟り切る)のはかなり難しい、社会生活を送る以上、ほぼ無理といっても過言ではないと思います。
という事は、肉体を持って生きる以上「悟ることに」にこだわる必要はないのではないかと最近は思っています。
人はこの世に生を受けた瞬間から死に向かって歩いて行くのです。つまり何もしなくてもいずれ全ての欲(物質)を捨てざるえないのですから。