東日本大震災から11年 

 2011年3月11日午後2時46分三陸沖でマグニチュード9.0の地震が発生した「東日本大震災」からはや11年。

 今日、偶然にも普段あまり地震が起きないこの辺で夕方2回地震が起きました。

 福知山では震度3を記録したようですが、ここ大江町では体感で震度2ぐらいだと思います。

 あれから色々ありましたが、11年は私にとってあっという間でした。時間が経てばどうしても記憶はあやふやになってしまうので記録という意味と何か役に立つ情報を伝えられればと、当時のことを書こうと思います。

 震災時、私の住んでいたいわき市では震度6弱の揺れが記録されています。ただひっきりなしに震度5強以上の余震がありました。

 地震直後、最初に思ったのは「これは大きな津波が来る」ということでした。

 私の家は海からは7キロほど離れているので津波の心配はまずないのですが、近くには「貝塚」があり昔はすぐ近くまで海だったようなので全く安全とは言い切れません。

 家に帰って先ずライフラインを確認しました。電気は大丈夫でしたが水道は止まっているとのことだったので、すぐ近所のスーパーに行きました。

 店内は商品が散乱していましたが開いていました(その当時はマニュアルがなかった)。お客は数人しかいませんでしたが買い占めるわけにはいかないのでミネラルウォーターと食料を2~3日分買い店を出ました。

 家に帰って今度は軽トラに200?~300?リッター程のタンクを積み山に水を汲みに向かいました。私が行った時は誰もいなかったので気兼ねなく汲めました。次の日には行列ができていたようです(水を調達出来るところを予め見つけておくことをお勧めします)。

 数日するとほぼみんな「地震酔い」になり、揺れていなくても揺れている感覚で「今揺れた?」「揺れてない?」照明のコードなど、なにか上からぶら下がっているもので確認してました。

 地震の来る前に起こる「地鳴り」と飛びかう「ヘリコプター」の音と区別がつかなくなったりもしました。

 そのうち、震度5未満の余震は地震の内に入らない、震度5以上で「あっ、今のはちょっと大きかったね」という感じになってました。

 ニュースなどを見なくても体感で震度が分かるようになりました(私の場合は震度3と震度5を基準に大きいか小さいかで判断してました)

 ちなみに近所で3.11の地震で倒壊(全壊)した建物は私の知る限り工務店の事務所ぐらいでした(3回前を通り2度見したので6度見しました)。

 あとは耐震工事が終わったばかりだった避難場所設定の公共施設が壊れ、取り壊し予定で耐震工事をしていなかった小学校がほば無傷だったためそちらが避難所に振り変えられたりとかありました(常磐炭鉱がまだ力があった時に建てられた校舎で頑丈に造られていたらしい、ただいくら頑丈でも古いので、「あそこの避難者は可哀想だよね」と言われていました。特にトイレ)。

 福島原発においては周辺地域の住民だけにはその日の夕方に「車のガソリンを満タンにして出来るだけ遠くに逃げてください」と連絡があったそうです。

 原発周辺の避難者はプチバブル(もちろん全ての人ではないと思います)だったようで、我々60キロ圏外の住民とは軋轢が生まれていました。実際、救援物資の横流しや保証金の2重取りなど横行していたようです。うちの実家のボロアパートがまさにそれに使われていました。通報してもお役所は全くヤル気なしの対応だったと聞いています(私が福島を出た後の話なので混乱時ではないです)

 福島原発は震災前からデータ改ざんなど問題を起こしていたので安心安全というイメージはなかったです。

 テレビ会見中、当時のいわき市長は余震があった途端真っ先に逃げてしまいました。そして誰も写っていない画面はとてもシュールでした。

 お役所仕事といえば、震災時に配る予定だった備蓄食料の一部に賞味期限切れがあったということでみんなが一番必要としていた時に全て配られませんでした。私の知り合いが貰いに行ったら断られ「食べる物がないのに賞味期限なんて気にするか!」と怒っていました。私の姉が近所のお年寄りにパンを1つ分けてあげたら泣いて喜ばれたと言ってました。

 私が貰った救援物資といえばヨウ素剤2錠だけです。「ホットスポット(放射線量の高い場所)」があるので気を付けて下さいと言われました。

 原発が爆発して、60キロ圏外のいわき市も風評被害でトラックが入って来なくなり物資が不足しました。

 その時真っ先に店を開いたのが地元の「スーパーマルト」でした。ガソリンも不足している中、自社トラックで仕入をして営業を再開して貰ったのは有難かったです。「やっぱりいざという時は地元の企業だよね、忘れちゃいけないね」とみんな言っていました(みんな忘れてないよね?)。

 そして男気をみせたのが江頭2:50、エガちゃんです。ほとんどの有名人が報道陣のいる大きな避難所を訪れる中、真っ先に極秘に救援物資を届けてくれたのです(もちろんYouTubeのエガチャンネルも登録して見ています)。いわき市民は全員エガちゃんのファンです(たぶん)。

 2時間並んでカップ麺1人1つということもありましたがみんな順番を守り割り込むような人もいませんでした。又やっと店に入れたと思ったら余震が起き「外に避難してください」と何も買えない時もありました。

 それでも見ず知らずの人同士譲り合ったり情報を交換したりして優しい気持ちになりました。「日本もまだまだ捨てた物じゃないなぁ」と思ったり「日本人っていざって時は団結するんだなぁ」と感心したりしました。

 どこどこで何を支給するという放送車がたまに通りましたがほぼ普通のスピードで走って行くので全く聞き取れませんでした。私が聞き取れないのでお年寄りはまず聞き取るのは無理だったでしょう。

 私は買い物の時は「今日はこの辺に行ってみよう」とおおよその場所を決め、自転車で片道1時間ぐらいのところまで行って帰って来るというやり方でした。そうすると途中何かしらの店が開いていたりするのでとりあえず覗いてみるという感じでした。

 ちなみにミネラルウォーターやジュースなどは手に入りにくかったですが酒類は売れ残ってました。でもビールはなかったかな?焼酎、日本酒、ウイスキーとかは残ってましたね。

 水道に関しては1ヶ月は断水していた記憶があります。水道(ライフライン)は病院や公共施設周辺から復旧していくのでそのあたりに住む知り合いが居れば譲って貰えたりします(容器は必須)。

 ただガソリンも貴重なので遠いなら並ぶ可能性はありますが給水所のほうがいいかもしれません(災害時ガソリン携行缶はまず手に入らないのでを備えて置くといいと思います)

 水道が使えないと当然トイレは流せません。あいにく家は井戸があったので助かりました。ただ30年ぐらい使ってなかったので水は綺麗ではなかったですがトイレに使う分には問題なかったです(水を必要としない簡易トイレを備えておくといいと思います)。

 でも「飲み水じゃないから飲まないで」と念を押して井戸水を分けても飲んでしまう人がいるんですよね、そういう時話の通じない人は非常に難しいと思ったりしました。

 トイレの水を流すのにはバケツ1杯の水が必要でした(ちょっとコツがいります)。それをケチるとちゃんと流れず結局多くの水が必要になります。

 川が近くにある人は川水を、ない人はドブ水を使っていたという話も聞きました。

 あとはお風呂ですね、体を拭くウエットシートでも多少はさっぱりしますがシャワーやお風呂を使えないのは現代日本人には結構ストレスになります。

 あいにく家の風呂は五右衛門タイプで灯油ボイラーとソーラーも使えるようになっていたのでお風呂には入る(毎日ではないですが)ことが出来ました。

 ただ30年使っていなかった井戸水なので緑色でちょっと臭いもありました。が、バスクリンと思えば思えなくもなかったです。

 食欲はあまりなかったと思います。

 水を節約するため皿にはラップを巻き割り箸を使ってました。

 瓦屋根が落ちたの家は応急処置でブルーシートをかけるのですが、ブルーシートと土のう袋が不足し、高額請求をする業者が問題になったりしました。

 ブルーシートや土のう袋はあまり長持ちしないので数ヶ月以内にちゃんと処置しないとブルーシートや土のう袋が破けて余計な手間がかかるようになるので注意が必要です。

 意外と気が付かないのがお墓です。墓石が倒壊すると結構な補修金額が発生します。あらかじめ補強しておくか倒壊する前にズレを戻すことをお勧めします。

 長くなってしまいましたので次に続きます(次は4.11について)。